[1]

仙童寅吉物語一之巻

 平田篤胤 筆記考按

高山嘉津間。元の名は寅吉と云。始め山崎美成が方に在けるが、後には己が家に来て長く逗留する事と成りぬ。其は別に記せる物あれば此に略して、今はただ問に答たる事のみを記し出むとす。扨其山人に誘はれたる起を尋ねしかば、
寅吉云く、
文化九年の七歳なりけるとき、風と卜筮の事を学びたく思ひて、同所茅町なる境稲荷の前に住せる貞意といひし卜筮者は、其頃よくトひ当て流行ける故に、是につきて学ばむ事を請しかば、幼き者と思ひて戯言したるか「七日手燈を燈す行を勤めて後に来らば教へん」といふ故に、其夜より手燈の行をおこなひ始め、七日にみちて行たりしに、笑ひて教へざりしかば、残多く思ひて日を送りけるが(この卜者は後に上方辺へ行たりしとぞ)
 或日東叡山の前なる五條天神の辺に遊びて在けるに、五十歳ばかりなる翁の薬を売るが在りて、径り三四寸も有らむと思ふ壺より薬をとり出して売けるが、暮時になりて取並たる物どもを小つづら敷物まで、悉くかの壺に入るるに、何の事もなく入たり。
 斯て自もその中に入らむとす。いかで此中に入らるべきと見居たるに片足を踏入たると見ゆると等しく皆入りて、其壺大空に飛上りて何所に行しとも知れず、甚奇しく思ひしかば、其後また彼処に行きて夕暮まで見居たるに、前にかはる事なし。
 其後にもまた行て見るに、彼老人「其方も此壺に入れ」といふにぞ。いと気味わるく思ひて辞ければ、彼翁かたはらの者の売る作菓子など与へて「卜を知たくば、此壺に入りて吾と共に行べし」と勧むるに、行て見ばやと思ふ心いで来て、其中に入たる様に思ふと日もいまだ暮ざるに、とある山の嶺に至りぬ。其山は常陸国なる南台丈と云へる山なり。(此山は加婆山と我国山との間に在りて師子が鼻岩といふ石のさし出したる山なり)
 さて幼かりし時のこと故に、夜になりては頻に両親を恋しくなりて、声を挙て泣しかば「然も有らば家に帰してむ。必この始末を人に語ること無く、日々に五條天神の前に来るべし。我送り迎ひして習はしめむ」とて、大空を飛びて連帰りたり。斯て我は堅く老人の誡を守りて、今日までも父母に此事を云ざりしなり。
 さて約束の如く次の日五條天神の前に行けば、彼老人来て居て我を背負ひて山に至れり。如斯すること日久しかりしが、いつも家をば広小路なる井口と云ふ薬店の男子と共に遊びに出る風にて出たりき。さて行たる山は久しく南台丈なりけるに、いつしか同じ国なる岩間の山に至りて有けり。爰に「我かねて宿願なれば卜ひを教へ給はれ」と云ひしかば、「其はいと易き事なれども、易トは宜からぬわざなれば、まづ余事を学べ」とて、祈祷の為方、また符字の記しかた、呪禁その外幣の切かた、文字の事など教へらる。
 又或時かかることも有き。其は天狗の面をかぶりてわいわい天王とはやし、赤き紙に天王の二字を押たる札をまき散すを、子供大勢つき行くに我も其中に交りてはやし行たるに、本郷のカネヤスの先まで行ぬ。
 然るに日くれ方に其事を止めて、面を取たるを見れば彼老人なりき。斯て家に送り返さむとて、家の方へ連来りける。榊原様の表門の前にて父が尋ねて出たる事を知りて、「向ふより其方の父が尋ね来れり。此事必ず云ふ」なとて、「此子を尋ね給ふには非ずや。遠く迷ひたると見し故に連来れり」とて渡せば、父なる者其名を問ふに何処の誰とあらぬ名を云ひて別れたり。後に其所に尋たるに、元より偽なりしかば其所にさる人は無りしなり。
 凡てわいわい天王に札をはりて銭を取らぬ中に天狗あり。其は日ごとに彼老人の送り迎ひしたるなれど、両親始め人にはかつて語らず、また我が家は貧乏故にさしもかまはず世話なく遊びに出るを善として尋ざりしなり。かく山に往来したること十一歳の十月までなり。十二十三歳には其事なく、只をりをりに見えて事を教ふるのみなり。
 さて父与惣次郎は我が十一歳になれる八月より煩ひ付たり。父が病中に彼人来りてしばらく寺へ行き経文をも覚え、寺の有状をも見よと有し故に、出家せむと父母に願ひしかば、下谷地端なる正慶寺といふ禅宗の寺に遣したり。此寺より帰りて後に同所の覚姓寺といふ日蓮宗の寺へも遣し、其後また宗源寺といふ日蓮宗の寺にいたり、此寺にて出家したり。
 然るに文政二年五月二十五日に師に伴はれて、空中を飛行し、遠きからの国々までも行たるが、またまた常陸国岩間山に至り、種々の行を行い、名をも師より高山白石平馬と負せられ、平馬の二字を書判にして賜はれり。さて去年の秋八月一度家に帰り、またまた師と同道して東海道を行きて、江の島鎌倉などを見廻り、伊勢神宮を拝し、其外国々処々を見廻り、今年三月二十八日家に帰りたるなり。

inserted by FC2 system