土佐の宮地氏 初編 宮地美彦著

第一、高知県内 宮地の人々。
宮地直一(士) 高知県高知市大川筋一一八番地 (学者、官吏)(文学博士)
宮地美数(士) 東京市渋谷区代々木(明治神宮神官)(高知潮江天満宮宮地氏の戸主)


第二、宮地家の紋章

八ツ山形に三ツ引
潮江宮地の本家の紋。後世は之を略して山形に三つ引の紋を用ふ。
山形に三ツ引
潮江宮地氏(本家)の紋にて、分家には之を使用することを許さぬ家憲にて、其分家は新しき家紋の訓定あり、その(訓?)次の如し。
剣勝見
桜馬場の宮地氏(宮地重岑家)潮江東の宮地の分家にして始めて此家を用ふ。此の家より比島神明宮の宮地氏分出す。


第六、宮地氏の系図及び年譜
◎宮地系図の鈔録(潮江東の宮地家系図による、此系図にて櫻馬場の宮地(故掌典宮地嚴夫)家、種崎浦の宮地(故宮地直親)家、比島神明宮の宮地(鹿持門宮地益躬、十市琴平宮の宮地益井)家、潮江の東宮地家(明治神宮神官の宮地美数)家、潮江の西宮地家、潮江前川の宮地家、潮江出身の宮地茂秋家、春林舘の医師宮地(故重幸)家、大高坂宮地家、神原村の宮地家、大津村の宮地家等の本枝を左に鈔録す) 家紋は山形に三ツ引、又、八ツ山形に三ツ引などと伝ふるも、近世各家の紋章に変迁あり。紋は別項に記す。 元来宮道氏…(藤原姓)なり。家伝に其先は京師に出づ、山科二社の後裔と云ふ。土佐国に迁りて中世以降の系続(若左衛門正勝より)左の如し。

◎土佐国宮地氏の祖は宮道(みやぢ)氏にして大和武尊の御子宮道別王より出で、参河国寶飫郡宮道郷より土佐に遷れるが如しとの記あり。今宮地堅磐主の記録より系続の太要を左に鈔出す。(編注:小碓命から若左衛門正勝まで)

正重の父若左衛門正勝、秦元親に仕へて家禄三百貫を賜ひ、初吾河郡浦戸に住し、後土佐郡潮江村天満宮神主職を兼帯し、潮江村に遷居す。天正十八年天満造営の棟札に姓名を載す。且本村近邑西采地若干秦主地検帳に見ゆ。此後子孫代々当村に在り云々(同家系譜)又曰く、正重秦氏に仕へ天満宮神主となり、禄三百貫の内百貫を減ぜらる云々。
平兵衛尉正重は慶長二年元親朝臣盛親朝臣政事記中五郡諸奉行の中、姓名を載す。然而秦家滅亡後、無禄を以て天満宮に奉仕し、自力を以て社殿を再建す。寛永十六年十月六日歿す。
(編注:「秦家」とは長宗我部家のこと)

(編注:原書は小碓命から若左衛門正勝までと、若左衛門正勝から堅磐までと系譜が別れてるが利便上ひとつづきにした。また兄弟姉妹などは必要なもの以外は省略した。)

宮地家家系譜

【宮地家家系譜画像】


第七、宮地に関する伝説
其十一、宮地平兵衛は天神社の神主にて秦氏に仕へ二百貫を食む。文禄征韓の役軍功あり云々と、武藤平道雑記にあるも、宮地堅磐主は云ふ、文禄役には水主総掌船奉行として征韓船配の備を立てしも甲浦より兵卒残らず引還すと云ふ。但し甲浦にて征国滅びしと聞てなりと、伝ふ。


第十五、土佐歌人の内、宮地氏の人々
宮地和泉守益躬   宮地大和守 守遠
宮地常磐大重    宮地伊久蔵 常坦
宮地荘蔵仲枝 水渓 宮地左市 貞枝
宮地喜八郎春樹   宮地馬之助 騰


第二十八、人事興信所の人事興信録に所載の宮地氏左の如し(大正四年発行)。
宮地嚴夫 正五位勲四等、掌典兼楽部長、東京府士族
妻千代  高知県士族 馬場高任長女
男    威夫
男    英夫
長女   小富士は高知県士族山本延身に、二女琴與は同県士族、野崎小十郎に嫁す。


第二十九、宮地嚴夫。
嚴夫は高知県土佐国長岡村左右山手島俊蔵増魚の三男にして幼名は竹馬、後功、又太左衛門と改む。医師手嶋太長の弟なり。十五歳の時土佐郡小高坂村櫻馬場、五位の神職宮地伊勢守重岑の養嗣子となり神道学を修めて家督を相続し、平田篤胤の門に学び、伊東祐命に就きて国学歌道を究めしが、明治維新前勤王の為め奔走し、維新後は神宮教高知支部長を奉職して教会所を新築し、或は御分霊を奉安して同志森新太郎、大石圓、池知退蔵等と共に協力して高知県敬神家を誘導し各地に崇神教化の説教をなすなど其功多大なりしが、同部長の職を山内豊章に譲りて明治五年教部省に転じ、神宮司庁に入り、理事主典を歴任して明治二十一年宮内省に入り、式部職掌典となり、楽部長を兼ね大正四年迄勤続実に三十ヶ年に及びしが、従四位勲四等に叙せられて同年七月十五日病んで東京市麹町区永田町の自邸に卒す。享年七十三。氏は性厳格にして別に逸話を有せず、故実式典に精通し、且つ多年仙人の研究に耽りて有名なりき。息威夫は文学士にして東京に在住す。(東京府士族)。


第三十七、宮地大和守遠が赤誠(土佐史談 第六号 歌訳三節 伊藤乗興による)(編注:上記系図の平兵衛尉正重の子豊都より五代目の子孫にあたる)
宮地大和守遠は潮江天満宮の祠官にして鹿持雅澄翁に学びて鹿門十哲の一人なり。嘉永年間高知街に虎疫猖獗を極め、市街の家は感染殊に甚しく、軒を並て死者を出し、日々葬地に送るもの陸続たり。その猛勢追々隣村を侵さんとす。殊に潮江は高知市と一水を隔つるのみにて、剰へ墓山の在所故、日毎に棺槨の村内を通過するもの間断なし。村内老少男女生きたる心地もなく日夜恟々恐懼堵に安んぜず。守遠之を見て、奮然として起ちて曰く、「神職は徒らに祝文を唱へ、神楽を奏するのみを以て能事終れりとするは決して我輩の職分にあらず。我はこれより天満宮に参籠し、丹精を凝らして一村の為に祈請し、若し一人たりとも此村に悪疫の侵すあらば、生きて再び家に還らじ」とて、妻子に訣別し浄衣斎戒して社殿に籠り数日の間断食し、唯毎日少量の水と少許の食塩とを舐るのみ。かくて大神に奉りし歌

斎瓶を いはひほりする わが神に あぐる命は 諸人のため

と、かくして祈請日を重ねしに、奇なる哉、潮江の域内一人の感染者なく、追々病勢衰熄して無事に危難を免れたり。村人これを感荷し、大和守は生き神様なりとて額手して之を尊信せりといふ。嗚呼氏の誠実神に通ぜしか、又神を頼みて衆人の心を牢固にし、萎蘼を振起せしに依るか、かにかく其人の誠実推して知るに足るべし。安政五年九月二十一日、行年三十七歳を以て世を去れり。村人泣きてその死を惜み、争ふて柩を擔ぎ、特に此歌を乞ひて碑陰に録せりといふ。此碑現に潮江村(筆者云、今の高知市潮江)妙国寺の南麓にあり。(筆者附記す。守遠は大和守と称す。家は土人呼んで西の宮地と云ふ)。
守遠の歌に

ほころべる 草の袂を 秋風の ぬえとてよれる いとすすきかな


第三十八、宮地大重、八矛、益躬、堅磐などの事
宮地大重は初め上野佐重房と称したり。幼名佐之助、後布留部と改め、更に常磐と改称した。鹿門十哲の一人にて潮江天満宮の社司なり。里人東の宮地と呼べり。勤王家にして諸国を遊歴して当時の形勢を偵察し、或は武市半平太に獄中へ神符を送って神明の加護を祈りたることもあり。仲々不覇剛直な一面、丹青の枝に凝りて「萬葉品物解図繪」「鹿持雅澄肖像」などを描きて有名なり。明治二十三年一月十五日歿す。年七十二。文政二卯年十一月十五日生。
(略)
宮地堅磐 大重常磐の男にして天満宮の社司を勤む。幼名政、諱は政昭、後に清海、又水位と改め、更に堅磐と改む。父は鹿門十哲の一人大重にて母は熊沢彌平の女榮、嘉永五壬子年十一月潮江に生る。家号を苔生舎(こけむしのや)と云ふ。文学、歴史、天文、剣道、砲術等を精励し、後年大病を患ひしため九死に一生を得て神仕の傍、専ら著述に専念し、博学多識にて著書数千の多きに及べりと云ふ。明治三十七年五十三歳にして病歿す。

 題源三位射鵺図
引はなつ 征矢の羽風に きりはれて 雲井にたかき 弓張の月

 擣衣
てる月も こほるはかりに 影さして 夜寒の里に ころもうつなり

(編注:宮地堅磐の文に「歌あり」などの文字がないため、「擣衣」が堅磐氏のものか判然としませんが、文のすぐ後ろに載っていることもあり、念のため載せておきます。「題源三位射鵺図」は神仙道誌に書かれていたため宮地堅磐作で間違いないと思います。)

- 完 -

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